バルビゾン芸術の歴史と遺産 - 井出洋一郎氏
先週の土曜日(1/28)に、ブリヂストン美術館の
土曜講座で東京純心女子大学の井出教授による
『バルビゾン芸術の歴史と遺産』
を拝聴して参りました。当日は、横浜でランチ時に
通訳のお仕事を済ましていらした友人のまゆりんさん
とご一緒に参加したのですが、いつになく満席で
後ろの方に座ったら前の人の頭で、首を横にしない
とスクリーンが見えないという悲惨な事態だったので、
今度は早めに行って前に座らないとッ!!と思った
のでした。
バルビゾン派というとルソー、ミレーとかコローなど
どちらかというと暗い色調の風景画が多いですよね。
今回、井出先生のお話を伺って、バルビゾン派の
成り立ちとそれから印象派に繋がるお話を沢山の
画像も見せて頂きましたので、その辺りの関連性が
とてもよく分かりました。
BlueHeavenのTakさんも同日の講演会へ行かれて
バルビゾン周辺の地図や講演内容を分かりやすく
書かれています。また、 「涙のじゃがいも物語 」の
続編もお楽しみくださ~い♪
また、井出教授のHP「ミレーとバルビゾン芸術」を
私もミレーについて調べていたら発見しまして、
ミレーの図版をご覧になれます。それに
ブログ「blogガンヌの宿 亭主謹言」まで~(^u^)
その土曜講座の文中に。。
「お客はどちらかいえば高齢だがよく聞いてくれるし、
笑いの反応も早く。。。」
ってそれって私のことかしらぁ~?と噴出してしまい
ましたww
1822年、イギリスの風景画家コンスタブルが
フランスのサロンで作品を展示しました。
ドラクロワがその絵を観て大変感激したそうです。
イギリスの天気はすぐに変わるので、雲が動くような
空を描いた秀作が多いそうです。井出先生は、その
雲に魅せられて、コンスタブルの絵画展を新宿の
伊勢丹美術館と山梨県立美術館でご開催する中、
「雲だけのコーナー」を作って10点ほど展示しましたが、
マニアックだったのかお客さんの反応はあまりなかった
ようです。それでもその空の表情は、フランス絵画に
大きく影響を与えたそうです。
オランダの絵画、ライスタールなどの地平線が
低く、空の部分が多い風景画からもフランスの
画家達は学びました。
19世紀に入って産業革命で鉄道の発達に伴い、一般
の人たちも郊外で過ごすアウトドア志向になってきました。
そこでバルビゾン派も印象派の画家たちも戸外へ出て
描き始めるようになりました。
1830年頃からパリの南東フォンテーヌブローの森で
ミレーとルソーも太陽の光が朝には森に当り、夕方
には畑の方に夕日が当る自然の美しさに魅了されて
「ガンヌの宿屋」を拠点にして、バルビゾンの美しい
風景画を描き続けました。
「ガンヌの宿屋」
壁や家具などにも画家達の絵
が残っているそうです。
開発が進んでバルビゾン地区にも伐採が進んで
きたので、ミレーとルソーはその地域の自然保護を
皇帝へ訴えたこともあって、それ以来、「美観地区」
に指定されることになり、その功績からミレーと
ルソーの記念碑が1884年フォンテーヌブローの森の
入口に建てられたとのことです。(井出先生のHPで
そのお写真がありました)
《種をまく人》 1851年
ジャン=フランソワ・ミレー
リトグラフ、紙
《田園の夕暮れの印象》
カール=ピエール・ドービニー
油彩、カンヴァス
アメリカ人はプロテスタントが多いので、ミレー
の農民画に宗教的な意味合いを求めたのか
ミレーの絵がよく売れたそうです。フランスでは
「じゃがいも」を描くことは貧乏臭く見えるし、社会主義
を誇張しているかのようにも見えると賛否両論だった
との初めて知るお話を伺いました。じゃがいもは飢饉
の時の食べ物という位、当時はフランスではあまり
食卓に上がらなかったからだそうです。 《晩鐘》も
アメリカ人のコレクターからの依頼で描いたので、
55万フランの高値が付いたとのことです。
しかし、あまりに世界的に有名な絵になってしま
ったので、フランスで買い戻しオルセー美術館に
現在は展示してあるとのことでした。
1875年1月にミレーは亡くなりますが、最晩年に
描いた絵は、部屋から窓の外の景色が印象派
の描き方そのものだったということです。もう少し
長生きしていたら、印象派の様式に移って行った
のではと思わせるほどその部分は大変明るく描か
れていました。
そのほか、ルソーの木の葉を一枚一枚、丁寧に
描いた森の絵を何枚かご紹介していただき、コロー、
クールベと続きました。クールベは個性的だったせいか、
ミレーからもあまり好まれていなかったようですが、ミレー
の農民画やルソーの影響が強く、二人の絵を観ることで、
自然/写実主義としての力量も上がってきたそうです。
1865-67年頃はいよいよバジール、モネ、クールベ
達もフォーンテーヌブローの森で風景を描くようになり
ます。バジールは南仏のモンペリエで色彩が鮮やか
な風景画を描きますが、普仏戦争で若くして戦死
してしまい、長生きしていたらモネやルノワールより
も風景画は良かったかと思われるほどでした。
モネや印象派の画家達は、光を求めてバルビゾンより
東に流れているロワール川辺りで絵を描くようになります。
最初のモネの《積みわら》は、 ミレーやルソー風に農村で
夕日を浴びるようにして描かれています。これは光が当る
モチーフとして描き始める最初の作品となりました。
ルノワールでさえ初期の作品《森の空き地》では、
ルソーやミレーやクールベの影響が見て取れる
風景画でした。
ピサロもミレーの農村画を尊敬していて、《座る農婦》
はミレーの構図のように描かれています。
シスレーにおいても野外で描くバルビゾン派のミレー派
に属しているそうです。
その後に続くゴーギャン、ゴッホなども基本的にこの
バルビゾン派から豊かな栄養を吸収しているとのこと。。
ここで終了でした。ここから先もお聞きしたいですね!
途中で止めようかと思いましたが、メモを見て思い出しつつ
書いてみました。このように、バルビゾン派から印象派への
流れは着々とフォーンテーヌブローの森の奥で系統だって
実践され受け継がれていったようです。井出先生、貴重な
情報を沢山ご教授くださいましてありがとうございました。
注: 今週の土曜講座「レンブラント、フェルメールの時代」
のチケットはもう完売になったそうです。
追記: まゆりんさんとその後、ティールームでお話したのですが。。
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